2011年7月30日土曜日

「エスペラントが楽しい」か「エスペラントで楽しい」か

エスペラントのコミュニティーは非常に魅力的である。
パスポルタ・セルヴォを使えば世界中を旅行できる。
エスペランティストは基本的に親切なので、海外のエスペラントの集まりに行くときも、現地のエスペランティストは空港の出口から面倒を見てくれたりもする。
同母語話者は学習でも色々助けてくれる。
なにより、そうしてできた友達は何にも代えがたいものである。

しかし、そのコミュニティーを使うまでの学習がなかなか骨である。

一般に言われているのは、エスペラントの学習が容易であるということだ。
文法は16ヶ条であり、ちょっと詳しく説明してもA4紙数枚に収まるくらいである。
不規則変化は0である。
インターネット上には無料の学習サイトや無料辞書まであり、書籍も充実している。
特に2006年に出たエスペラント日本語辞典は一つの項目を熟読すれば、その単語の語法をマスターできる。
単語も重要な物は2400語根程度。後はきっと専門用語と詩作のための特殊用語。
わずかな文法と2400の単語を抑えれば、エスペラントで自由に書いたり話したりできる。

ここまでやれば、大会に参加していろんな人に声をかけ大会の雰囲気を楽しむくらいならできる。
しかし、込み入った話はまだできない。

実はエスペラント日本語辞典によれば、見出し語数は4万以上ある。
上述の2400語はあくまで最低ラインであり、一般的によく使われるが重要度の低い単語が結構ある。
エスペラントができた最初のころの話では単語は合成語を造ることでいろいろな概念を表せるということだった。
しかし、後になって、徐々に外来語がほぼそのまま入ってくるようになった。
例えばhobioは趣味だが、既に合成語ŝatokupoがある。
にもかかわらず現在ではhobioを使う方が圧倒的に多い(私の雀の涙ほどの経験上)。
さらに悪いことにはこの外来語は大体欧米語の単語から取り入れられている。
もともとラテン語などのヨーロッパ言語が多数語根に取り入れられているのだが、
語彙は最低限にして合成語で何とかしようという崇高な考えが、歴史とともに忘れ去られてしまったようだ。

ともかく、相手の知っている単語はすべて知らないと意味は分からない。こちらは相手が知っているであろう易しめな単語で発言してみたりする。こっちは基本単語2400で全概念表せる能力を持っていても、相手がその単語を逸脱したら、もう分からない。

この様に、エスペラントは学び出したらキリがない。辞書のすべてを丸暗記できるまで学習が終わることはない。生涯学習といえば聞こえはいいが、言語の場合、使えるのが前提でそこからさらにその言語で生産的活動ができてこそ、意味を持つ。つまり、学習はいつか終わり、マスターとして自由に考え、議論し、願わくば仕事しなければならない。生涯学びつづけたらそれで楽しむ前に死んでしまう。

「エスペラントが楽しい」か「エスペラントで楽しい」か。
前者は語学好きが趣味としてエスペラントそのものを楽しんでいる様子である。一方後者はエスペラントをほぼマスターして、自らの思想の吐露、科学論文・ビジネス文書の作成、さらには同時通訳などを実践しエスペラントを利用して楽しんでいる様子である。
後者を羨みつつ未だ前者にとどまる者のかく多いことか。私も今のところその一人。

2 件のコメント:

  1. 「語彙は最低限にして合成語で何とかしようという崇高な考えが、歴史とともに忘れ去られてしまったようだ」というのは、誤解ですよ。忘れ去ったようなひとがいれば、批判すればよいだけです。エスペラントをつかうことには単にいまある使われ方にしたがうだけではなくて、エスペラントの使い方を使い手が創っていくという意味があります。

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  2. provさん、コメントありがとうございます。
    使い手が作るのはもちろん重要です。批判するのもよいでしょう。しかし、その批判は大勢に受け入れられなければなりません。まったく骨の折れる仕事です。
    むしろ、みんなの使う外来語を覚えてしまった方が楽でしょう。しかし、人間は単語を1万も2万もそうそう覚えられるものではありません。
    まったくもってジレンマです。
    ちなみに私のわずかな経験上、難しい単語をより多く知っている方が偉いという人が多いようです。
    例えば、kineoにはrigardiではなくspektiを使うべきだと言う人もいますし、本ではsukcesegoやmalsukcesesegoよりもtriumfo,fiaskoの方がよく出てきます。

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